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東京高等裁判所 平成4年(行ケ)94号 判決 1994年7月05日

フランス国75007パリ、ブルバール・デ・ザンバリッド35

原告

ルセル・ユクラフ

同代表者

ジャン・クロード・ビエイユフォス

同訴訟代理人弁理士

倉内基弘

風間弘志

東京都千代田区霞が関3丁目4番3号

被告

特許庁長官 高島章

同指定代理人

茂原正春

吉田敏明

市川信郷

吉野日出夫

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

この判決に対する上告のための附加期間を90日と定める。

事実

第1  当事者の求めた裁判

1  原告

「特許庁が平成2年審判第4234号事件について平成3年11月28日にした審決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決

2  被告

主文1、2項と同旨の判決

第2  請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和52年1月21日出願の昭和52年特許願第5049号(1976年1月23日フランス国出願に基づく優先権主張)の一部を分割した昭和55年特許願第30970号の特許出願の一部につき、名称を「アミノチアゾリル酢酸の新規なオキシム誘導体」とする発明(以下「本願発明」という。)として、昭和59年9月28日、特許出願をした(昭和59年特許願第202156号)ところ、平成元年11月29日に拒絶査定を受けたので、平成2年3月20日、審判を請求した。特許庁は、この請求を平成2年審判第4234号事件として審理した結果、平成3年11月28日、上記請求は成り立たない、とする審決をし、その審決書謄本を平成4年1月13日、原告に送達した。なお、出訴期間90日が附加された。

2  本願発明の要旨

「次の一般式Ⅰ

<省略>

(ここでRはホルミル基を表わし、R′は1~4個の炭素原子を有する飽和アルキル基を表わし、Aは水素原子又はalkを表わし、そしてalkは1~4個の炭素原子を有するアルキル基を表わし、基OR′はsyn位置にある)の化合物。」

3  審決の理由

別紙審決書写し理由欄記載のとおりである(ただし、5頁15、16行目の「本願発明」は「先願発明」の誤記である。)。

4  審決の取消事由

本願発明の要旨及び先願明細書記載の技術的事項(以下「先願発明」という。)については認める。本願発明と先願発明の対比判断(審決書5頁5行ないし6頁16行)については争う。結論部分については、本願発明の発明者が先願発明の発明者と同一ではなく、また、本出願時に、その出願人が先願出願人と同一でないことはいずれも認めるが、その余は争う。審決は、先願明細書には、その式XⅣのR13がホルミル基で保護されたアミノ基の場合に相当する化合物が記載されていないにもかかわらず、これが記載されているとし、これに基づき、本願発明と先願発明は同一であると判断しているが、審決の上記判断は先願明細書の解釈を誤り、両発明の対比判断を誤ったものであるから、違法であり、取消しを免れない。

すなわち、特許法29条の2において、先願明細書に記載された発明とは、単に明細書に言及があるだけでは足りず、具体的に当該発明が存在することが明細書の実施例で確認されているか、あるいはその記載から自明であることが客観的に把握できる場合でなければならない。このような観点から先願明細書を検討すると、以下に述べるように、先願明細書には、本願発明の存在が具体的に記載されていないことはもとより、その記載事項から自明な程度にも記載されていないのであるから、この点に関する審決の認定判断は誤りである。

すなわち、確かに、先願明細書記載の式XⅣにおいて、そのR13が「保護されたアミノ基」であり、かつ、YとZが=NR5であってR5が「低級アルキル基で保護された水酸基」である場合には、本願発明の一般式Ⅰの化合物は先願発明の式XⅣの化合物の範疇に含まれるものということはできよう。しかしながら、先願明細書を前記のような観点から検討した場合、その式XⅣのR13及びR5が前記のような場合であることが開示されているとは到底いえないのであるから、審決の判断は対比の前提となる先願明細書の理解を誤った結果、両発明の同一性判断を誤ったものである。

(1)  先願明細書には、その式XⅣのR13がホルミル基で保護されたアミノ基の場合の発明の開示はない。

先願明細書に記載の先願発明の式XⅣの化合物は「そのアミノ基が保護されてもよい」と記載され、そして、アミノ基の保護基の一例として「ホルミル」が列挙されているだけで、アミノ基がホルミル基で保護された化合物が具体的に製造できる、又は製造できた、との記載はない。

この点を先願明細書に実施例として開示されたところに即してみると、先願明細書は、式XⅣで示される化合物の実施例として、α-メトキシイミノー〔2-(β、β、β-トリクロロエトキシカルボニルアミノ)チアゾール-4-イル〕酢酸及びそのエステルの具体的な製造を示している(実施例26、27等)。しかし、この実施例におけるアミノ基の保護基であるβ、β、β-トリクロロエトキシカルボニルは、その脱離によってメトキシイミノ基をもアミノ基に還元してグリシン誘導体を導くという特定の目的を付与された保護基である。このように、先願明細書に記載された具体的に製造されたβ、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基を有する式XⅣの化合物は主としてグリシン誘導体を導くための中間体化合物である(基=NR5が-NH2基に転化されている同様の製造例として、実施例14及び21〔=NOC2H5〕、28〔=NOCH3〕、29ないし31及び37〔=NOH〕がある。)。したがって、具体的に開示された以上のような記載からみる限り、先願明細書に記載された発明として把握し得るアミノ基の保護基は、その脱離の際に基=NR5が-NH2基に還元されるようなものであるというべきであるから、このような保護基は、式XⅣの化合物から保護基を除去する際に化合物の構造を変化させるものである。

これに対し、本願発明の一般式Ⅰの化合物におけるアミノ基の保護基は、その脱離によっても化合物の他の構造を変化させないようなものであるから、先願明細書に示された前記の保護基とは異なる保護基であることは明らかである。

したがって、先願明細書の概略的記載からみると、本願発明の一般式Ⅰが先願発明の式XⅣと構造的に一致するとしても、本願発明の一般式Ⅰの化合物は先願明細書には具体的に記載されていないというべきである。

以上の点は、両発明の技術的課題ないし作用効果という観点からみても明らかである。すなわち、確かに、両発明は共にセフェム又はペナム化合物の合成中間体の取得を目的とする点では共通する。しかし、本願発明の化合物では、チアゾール環の2位のアミノ基が単に保護されていればよいというものではなく、最終の目的化合物を導くために特に選定されたものである。本願発明の一般式Ⅰの化合物におけるチアゾール環の2位のアミノ基の保護基であるホルミル基は、本願明細書15頁に記載のように、ぎ酸、トリフルオル酢酸又は酢酸等の酸媒質中で容易に加水分解されて脱離されるのであり、このとき基NHRは遊離のNH2となり、化合物の他の部分の化学構造には影響しないのである。これに対し、先願明細書の実施例26、27に具体的に開示された前述の保護基では、保護基β、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基が脱離される際に、同時に、部分構造>C=NR5は>CH-NH2まで還元されてしまい、最終生成物中に部分構造>C=NR5を残さないのである。このように、先願明細書でアミノ基の保護基として具体的に開示された保護基β、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基の脱離においては、エトキシイミノ基(=NOC2H5)のアミノ基(-NH2)への変化が伴うものである。したがって、両発明における前記の各保護基がその作用効果においても相違していることは明らかである。

以上のように、本願発明の一般式(Ⅰ)の化合物においては、チアゾール環の2位のアミノ基が単に保護されていればよいというものではなく、また、ホルミル基がアミノ基の保護基として周知のものであっても、ホルミル基は前述のように先願発明と異なった技術的課題を解決するためのものであるから、本願発明が先願明細書に開示されていることにはならない。

なお、後記第3の被告の主張のうち、1<1>、<2>は認める。ただし、このことは、先願明細書に本願発明の化合物が容易に実施できる程度に具体的な裏付けをもって記載された完成した発明として記載されていることを認めるものではない。また、<3>についていえば、一般的に周知慣用されている保護基といえども、特定の反応に使用した場合所定どおりに機能するかは容易に予測できないところであるし、かかる被告の保護基に関する一般論は先願明細書の保護基に関する具体的な記載を無視したものといわざるを得ない。すなわち、先願明細書の8頁右上欄から同左下欄には、「得られる化合物は、要すれば保護基の除去または(および)基の変換を行なう。アミノ基の保護基の除去は、たとえばt-ブトキシカルボニルは酸によって、β、β、β-トリクロロエトキシカルボニルは亜鉛と酸によって、p-ニトロベンジルオキシカルボニルは接触還元によって行なわれる。また水酸基の保護基の除去は、たとえばホルミルやトリフルオルアセチルは水性メタノール中炭酸水素カリウムによって、テトラヒドロピラニルは希塩酸によって、β、β、β-トリクロロエトキシカルボニルは亜鉛と酸によって行なわれる。カルボキシル基のエステルの残基の除去は、たとえば、ベンズヒドリル、p-メトキシベンジル等は酸によって、β-メチルスルホニルエチルはアルカリによって、トリメチルシリル、ジメチルシレニルなどは水のみで、またβ、β、β-トリクロルエチルは亜鉛と酸によって、p-ニトロベンジルなどは還元によって行なわれる。また、メチルチオ基、メチルセレノ基などは、銀、水銀、鉛、タリウムなどの金属塩化合物の存在下メタノールを作用させることなどによりメトキシ基に変換できる。これらの保護基の除去、基の変換は同時に行なってもよく、また保護基の種類、次段の反応などを考慮していずれかを先に除去または変換してもよい。」と記載されている。このように、先願明細書に保護基の除去が具体的に説明されているものは、アミノ基の保護基としてのt-ブトキシルカルボニル、β、β、β-トリクロロエトキシカルボニル、p-ニトロベンジルオキシカルボニルのみであり、また水酸基の保護基としてはホルミル、トリフルオルアセチル、テトラヒドロピラニル、β、β、β-トリクロロエトキシカルボニルのみである。そして、それぞれについて除去の条件が説明されている。これらの説明は、保護基が周知であるからといって、直ちに使用できるものではなく、保護基の選定がいかに重要であるかを示している。そして、特に上記記載で留意すべきことは、本件で問題の「ホルミル基」がアミノ基の保護基としては具体的には説明されていず、水酸基の保護基として具体的に説明されているだけであるという点である。以上のような、先願明細書の記載からすると、ホルミル基はアミノ基の保護基としては当業者が容易に実施できる程度に記載されていないと解するのが相当である。したがって、被告の後記主張は、先願明細書の具体的記載内容の拡大解釈であり、妥当とは言えない。

(2)  先願明細書には、その式XⅣのR13がホルミルアミノ基(-NHR)、そのYとZが=NR5(R5がアルキル基が保護された水酸基である。)であり、かつ、OR′基がsynの位置にある化合物の具体的な開示はない。

<1> 本願発明の式(Ⅰ)の化合物は、-NHR基と下記の基

<省略>

を同時に含むことを必須の構成要件としている。

これに対し、先願明細書には、R13(保護されたアミノ基)及び-C-基(R5=保護された水酸OH基)を

<省略>

同時に含む化合物として具体的に製造されたものとしては、実施例26、27の化合物(R13=トリクロロエトキシカルボニルアミノ、R5=OCH3)がある。また、そのような化合物を使用して最終目的化合物を製造した実施例として、実施例6、7、8がある。

したがって、先願明細書において、本願発明の式(Ⅰ)の化合物が具体的に製造され確認されているとはいえない。

<2> 本願発明は、

<省略>

OR′基がsynの位置にあるところ、OR′基がsynの位置にある化合物の抗生物質活性は、antiの位置にある化合物より活性が非常に高いという作用効果上の相違がある。

ところで、先願明細書にはこの点について10頁左下欄に「なお、これらの化合物〔XⅣ〕、〔XⅥ〕に包含される2-オキシイミノチアゾール-4-イル酢酸誘導体はオキシイミノ基に関して理論的にsyn-及びanti-の両異性体が存在し得るが本発明の諸反応には両者とも同様に用いられる。」との記載があるのみである。このように、先願明細書においては、syn-及びanti-の両異性体の存在を示唆しているが、synの位置にある化合物の抗生物質活性は、antiの位置にある化合物より活性が非常に高いという前記作用効果を知らなかったものである。もし、先願明細書の出願人がsyn-異性体の製造法及び活性が高いことを知っていたとすれば、これを先願明細書で明瞭に記載したはずである。また、誰でもsyn-異性体が最良のものであることを知っている状況下では、syn-異性体を製造することができることは自明であるが、先願の第1出願日である昭和50年6月9日の時点では、上記のことは知られていなかったのであるから、syn-異性体の製造は自明ではなかったのである。

この点について、被告は後記主張2において、本願発明の中間体のsyn-オキシム自体が先願明細書に記載されているか否かを判断するについて、それから導かれる本件発明の最終化合物(syn-オキシム形)及びそれが優れた薬理効果を有することを考慮する理由はないと主張するが、失当である。すなわち、中間体化合物が特許請求される場合、中間体化合物の有用性が示されていなければそれは特許を受けることはできないと解されることからすると、本願発明の中間体化合物の場合には、その有用性の一つとして最終化合物の優れた薬理効果は当然に考慮されるべきであるからである。本願発明では、syn-オキシム形が最終化合物の薬理効果に及ぼす作用が顕著であるから、中間体化合物の有力な根拠となるものである。また、syn-異性体とanti-異性体の混合物が得られたとしても、syn-異性体が優れた薬理効果を与える中間化合物であることが認識されないならば、その分離は特に意図されないであろう。先願発明においては、被告も主張するように、syn-異性体とanti-異性体は等価であり、これらを分離して、確認する必要はないのであって、このことからしても、先願明細書には、式XⅣの化合物のsyn-異性体の重要性について何ら認識されていなかったものである。

(3)  以上のように、先願明細書には、ホルミルアミノ基とアルコキシイミノ基を共に有する式XⅣの化合物の発明は具体的には記載されていないといわざるを得ず、したがって、審決が本願発明を特許法29条の2に基づいて拒絶したのは誤りというべきである。

第3  請求の原因に対する認否及び被告の主張

請求の原因1ないし3は認めるが、同4は争う。審決の認定判断は以下に述べるように正当である。

先願明細書(なお、先願明細書の記載内容は先願発明の特許出願公開公報と同一であり、以下における先願明細書の引用は、同公報による。)には、そこに記載の一般式XⅣにおいて、R13がホルミル基で保護されたアミノ基であり、かつ、YとZが=NR5(R5がアルキル基で保護された水酸基の場合)である場合が、具体的な実験条件の記載まではないにしても、発明として記載されているものであるから、原告の主張は失当である。

1  先願明細書の一般式XⅣにおいて、R13がホルミル基で保護されたアミノ基であることについて

<1>  先願明細書には、下記式Ⅰで表されるセフェム又はペナム化合物及びその製造中間体並びにこれらの製造法に関する発明が記載されている。

式Ⅰ

<省略>

〔式中、R1は保護されていてもよいアミノ基または水酸基を、R2はアミノ基または水酸基あるいはこれらに変換できる基を、R3は水素、メトキシ基またはメトキシ基に変換できる基を、R8は水素またはハロゲンを示す。〕(先願明細書4頁左上欄)。

そして、先願明細書5頁右下欄から同6頁左上欄には以下の記載がある。

「セフェムまたはペナム化合物〔Ⅰ〕において、R1はアミノ基または水酸基あるいはこれらの保護されたものを示し、ここに保護されたアミノ基は、一般にペプチド化学で使用される脱離容易なアミノ基の保護基、たとえばホルミル、アセチル、プロピオニルなどのアルキルカルボニル基、t-ブトキシカルボニルなどのアルコキシカルボニル基、メトキシアセチル、メトキシプロピオニルなどのアルコキシアルキルカルボニル基、トリクロルエトキシカルボニルなどの置換アルコキシカルボニル基、ベンジルオキシカルボニル基、p-ニトロベンジルオキシカルボニルなどの置換アラルキルオキシカルボニルなど、あるいはプロトンで保護されたアミノ基などを意味する。」と記載されている。

以上の記載によれば、R1はホルミルアミノ基(-NH-CHO)、つまりホルミル基で保護されたアミノ基を含んでいることは明らかである。

<2>  次に、先願明細書の5頁左上欄から同右上欄には、以下の記載がある。

「(10) 式

<省略>

〔式中、Xはハロゲンを、Yは水素でZは保護されていてもよいアミノ基を示すか、YとZが=NR5(R5は保護されていてもよい水酸基)で表わされる基を示す。〕で表される化合物と、式

<省略>

〔式中、R12は低級アルコキシ基または保護されていてもよいアミノ基を示す。〕で表わされる化合物を反応させ、要すれば保護基を除去することを特徴とする式

<省略>

〔式中、R13は水酸基または保護されていてもよいアミノ基を、他は前記と同意義。〕で表わされる化合物の製造法」と記載されている。

そして、先願明細書5頁右下欄には、

「(15)式

<省略>

〔式中の記号は前記と同意義。〕で表わされる化合物と、化合物〔XⅢ〕を反応させ、要すれば保護基を除去することを特徴とする式

<省略>

〔式中の記号は前記と同意義。〕で表わされる化合物の製造法」と記載されている。

一方、先願明細書4頁右上欄から同頁左下欄には、

「(4)式

<省略>

〔式中、R5は保護されていてもよい水酸基を、他は前記と同意義。〕で表される化合物」と記載されている。さらに、先願明細書5頁左下欄には、

「(13) 化合物〔Ⅵ〕と化合物〔Ⅳ〕を反応させ、要すれば保護基の除去または(および)基の変換を行なうことを特徴とする化合物〔Ⅶ〕の製造法」が記載されているところ、先願明細書4頁左下欄の(6)の記載によれば、上記〔Ⅵ〕の化合物は下記の式を有する。

<省略>

また、先願明細書4頁左下欄から右下欄の(7)の記載によれば、上記〔Ⅶ〕の化合物は下記の式を有する。

<省略>

以上の記載によれば、式XⅣの化合物は式XXⅢの化合物を含んでおり、かつ、式XXⅢの化合物は式Ⅳの化合物に対応することは明らかであるから、R13はR1と同じものを指しており、実質的にR13に対してもR1と同じ定義が当てはまることになる。実際、先願明細書の上記(10)の式XⅣ及び同(15)の式XXⅢの化合物の製造法の化学反応から考えても、R13がR1と同じものであってならないと考える根拠は何も見当たらない。したがって、当業者は、先願明細書から、R13がホルミルアミノ基である場合を含むことを理解することは明らかである。

<3>  保護基とは、一般的には、保護基導入後に実施される化学反応から被保護基を保護するために被保護基上に導入する基であり、最終的には被保護基から脱離させるものである。したがって、保護基は、被保護基と共に保護基導入後の化学反応に対して不活性であって、かつ、最終的に被保護基を損傷することなく被保護基から脱離させることができなければならないはずのものである。これを先願明細書の式XⅣのR13がホルミルアミノ基である化合物の場合についてみると、保護基であるホルミル基を被保護基であるアミノ基上に導入する条件及びホルミルアミノ基からホルミル基を脱離させる条件は先願明細書に説明されているはずの事柄である。しかしながら、これらの条件が当業者にとって周知慣用であれば、これらの条件を詳細に説明する必要はない。単に、形式的に実施例又はこれに準じる程度の具体的な説明を欠いているというだけで、当業者が容易に実施できる程度に発明の目的、構成及び効果が説明されていないことにはならないのである。

確かに、原告主張のように、先願明細書には、ホルミル基でアミノ基を保護した場合について実施例又は実施例に準じる程度に具体的な説明はない。しかし、これはホルミル基がアミノ基の周知慣用の保護基の一つであり、導入及び脱離の条件が周知慣用であるため(乙第1号証参照)、当業者には具体的に説明する必要がなったことによるのである。

また、ホルミル基のような周知慣用の保護基は汎用性のものであるし、分子中に=NR5(ここでR5は低級アルコキシ基である。)のような基が共存する場合には用いることができないという一般的な考えがあるわけではない。なぜなら、ホルミルアミノ基の反応性は=NR5の反応性とは当然異なっているのであり、通常、ホルミルアミノ基からホルミル基を脱離させる周知慣用の反応条件から=NR5基を分解させない反応条件を選択することができるからである。なお、保護基を脱離させるとき、共存する他の基をも変換してもかまわないことはいうまでもないが、それは保護基本来の機能とは関係がないことであって、例外的なことである。保護基は保護基だけを脱難させることが本来の目的に沿っているのである。

<4>  したがって、原告主張のように、先願明細書に記載の式XⅣのR13の保護されているアミノ基が、原告指摘の実施例に記載されているβ、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基のような脱離の際、=NR5基と共に還元除去される保護基を使用するものに限定されているとの主張は妥当ではなく、周知慣用の保護基であるホルミル基の使用を排除しているものではない。

なお付言するに、本願発明の化合物を中間体として合成される最終化合物はオキシム化合物であるため、最終化合物を製造するためにはホルミルアミノ基からホルミル基を除去するときオキシム基を犯してはならないのは当然である。これに対し、先願発明のオキシム化合物は、最終的には対応するアミノ化合物又はヒドロキシ化合物に変換するための中間体である。そのために、オキシム基と保護したアミノ基を一挙にアミノ基とする有利な方法が可能となってくる。この方法は、前記の目的からすると有利な方法であるために先願明細書の実施例で具体的に説明されているが、まず、ホルミルアミノ基を有するオキシムを合成し、次に、オキシム基を還元した後、ホルミル基を脱離させるなり、ホルミル基を脱離させた後、オキシム基を還元して最終化合物に至る方法が先願明細書に包含されていないことにはならない。このような合成ルートはむしろ化学常識であり、むしろ最初に着想する方法である。

2<1>  R13がホルミルアミノ基でYとZがアルコキシイミノである先願明細書の式XⅣの化合物は、先願明細書に具体的な記載がある実施例26、27及び45の化合物とは、アミノ基の保護基が前者がホルミル基であるのに対し、後者はβ、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基又はクロロアセチル基である点で相違する。ところで、ホルミル基はβ、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基やクロロアセチル基と同じアシル基であるから、R13がβ、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基又はクロロアセチル基で、=NR5がアルコキシイミノ基である化合物が存在するのに、R13がホルミル基で=NR5がアルコキシイミノ基である式XⅣの化合物が存在しないとは通常考えられない。したがって、YとZが=NR5(R5は保護されていてもよい水酸基)であって、R13がホルミルアミノ基である化合物である先願明細書の式XⅣの化合物の発明が先願明細書に記載されていることは実験によって確認するまでもなく、明らかである。

<2>  原告は、先願明細書にはsyn-異性体である化合物を確認した旨の具体的な記載はなく、また、本願発明の化合物を中間体として使用するsyn-オキシム形の最終化合物の優れた薬理効果を先願発明の出願人は知らなかったと主張する。

先願発明において、薬理効果を有する最終化合物はオキシム基がアミノ基に還元されて同一のアミノ基になる化合物であるため、中間体のオキシム基はsyn-異性体、anti-異性体のいずれでもよい。これに対し、本願発明の最終化合物はsyn-オキシム形であるため、中間体のオキシムがsyn-異性体であるかanti-異性体であるかは重要な問題であることは原告主張のとおりである。しかしながら、本願発明の中間体のオキシム自体は、本願発明の最終化合物の中間体であると同時に先願発明の中間体でもあるから、たとえ、先願明細書中に本願発明の最終化合物及びその優れた薬理効果について記載がなくても、そのことが本願発明の中間体のsyn-オキシム自体についてまでも認識がなかったと推認する根拠になるわけではない。したがって、本願発明の中間体のsyn-オキシム自体が先願明細書に記載されているかどうかを判断するについて、それから導かれる本願発明の最終化合物(syn-オキシム形)及びその優れた薬理効果を有することについて考慮する理由はない。

<3>  ところで、ケトンとヒドロキシアミンとからヒドロオキシム(=NOH)を製造し、このヒドロオキシムからアルコキシイミン(=NOR)を製造する場合、通常、アルコキシイミンのsyn-異性体とanti-異性体の混合物が生成することは周知であり、この両異性体はクロマトグラフィー法その他の方法で分離可能であることも周知である。このような技術水準の下では、先願明細書において、式XⅣのアルコキシムが示され、そのsyn-異性体とanti-異性体が製造できることが認識されている以上、syn-異性体が必要に応じて製造、分離、確認できることは当業者には明らかなことである。つまり、式XⅣのsyn-異性体は先願明細書に記載されているに等しい。先願発明では、アルコキシイミノ基は最終的にアミノ基に転換するものであり、その関係で両異性体は等価であり、これらを分離する必要がないから、実際に分離、確認していないに過ぎないだけのことである。

<4>  先願明細書の実施例30には、「チオ尿素19.3g、α-オキシイミノ-β-オキソ-γ-クロロ酪酸エチル53.5gをエタノール300mlに溶解し室温で3時間攪拌したのち減圧下濃縮する。」と記載されている。そして残留物に水200mlを加えて溶解し、エーテルで2回洗浄したのち85%ギ酸水溶液130mlおよびエタノール150mlを加え、ついで氷冷攪拌下の混合物に亜鉛末37gを加えて還元することによって2-アミノチアゾール-4-イルグリシンを製造することが記載されている。上記の括弧内の過程は、中間体として2-(2-アミノ-4-チアゾリル)-2-ヒドロキシイミノ酢酸エチルを製造する工程であることは、亜鉛末還元後の生成物からみて明らかである(以下、上記の括弧内の過程を「先願発明の実施例の方法」という。)

これに対し、本願の平成元年4月17日付け手続補正書(乙第3号証)の23頁記載の例1:2-(2-アミノ-4-チアゾリル)-2-ヒロドキシイミノ酢酸エチル、syn異性体と題する部分には、「2gのγ-クロル-α-オキシミノアセチル酢酸エチルを5ccのエタノールと0.76gのチオ尿素に加え、全体を周囲温度において全部で16時間かきまぜる」方法(以下「本願発明の実施例1の方法」という。)により、MP=154℃のanti-異性体を1.22gだけ得、また、「数回の実験から得られた母液と洗浄水」からシリカ上でのクロマトグラフィーによりMP=232℃のsyn-異性体を得る方法が記載されている。以上によれば、本願発明の実施例1の方法では、両異性体が同時に生成していることは明らかである。また、本願発明の平成元年4月18日付け手続補正書(乙第4号証)の例10:2-(2-ホルムアミノ-4-チアゾリル)-メトキシイミノ酢酸エチル、syn異性体と題する部分には、「1gのγ-クロル-α-メトキシイミノアセチル酢酸エチル、3ccの無水エタノール及び0.42グラムのチオ尿素を一緒にし、周囲温度で約2時間かきまぜる。60ccのエーテルで希釈すると得られた塩酸塩が結晶化する。さらにかきまぜ、分離し、洗浄し、乾燥して685mgの塩酸塩を得た。これを50℃の4ccの水に溶解し、酢酸カリウムをpH6まで加えると遊離したアミンが結晶化する。冷却し、分離し、水洗し、乾燥し、270mgの2-(2-アミノ-4-チアゾリル)-2メトキシイミノ酢酸エチルsyn異性体を得る。MP=161℃」と記載されている(以下この方法を「本願発明の実施例10の方法」という。なお、この方法は、本願の現時点における明細書の唯一の実施例である例1にそのまま含まれている。)。以上の先願発明の実施例の方法と本願発明の実施例1及び同10の方法を比較すると、反応条件に格別の違いはないから、本願発明の上記の各方法において、オキシムのsyn-異性体及びanti-異性体の混合物が生成しているならば、先願発明の実施例の方法においても、同様に同時にオキシムの両異性体が生成していることになる。そして、両異性体の混合物が生じた場合、両異性体を必要に応じて分離、確認できることは、前記のとおり周知であるから、先願明細書には、2-(2-アミノ-4-チアゾリル)-2-ヒドロキシイミノ酢酸誘導体のsyn-異性体、つまり式XⅣで表される化合物が記載されていることになり、したがって、本願発明は、先願明細書に記載されていたことになる。

第4  証拠

証拠関係は書証目録記載のとおりである。

理由

1  請求の原因1ないし3は当事者間に争いがない。

2  本願発明の概要は、成立に争いのない甲第3号証(平成2年4月19日付け手続補正書)によれば、以下のとおりであることが認められる。

本願発明者は、syn-異性体形を有する下記一般式〔Ⅰ〕で表される新規な7-アミノチアゾリルアセトアミドセァロスポラン酸のオキシム誘導体は、anti-異性体形を有する下記一般式〔Ⅰ′〕で表される化合物よりも広くグラム陽性菌及び陰性菌、詳しくは、一方ではぶどう球菌のようなグラム陽性菌、特にペニシリン耐性ぶどう球菌属細菌に対して、また、他方ではグラム陰性菌、特に大腸菌群、グレブシェラ属、サルモネラ属及びプロテウス属細菌に対して非常に良好な抗生物活性を有することを発見した(平成2年4月19日付け手続補正書4頁10行ないし5頁2行、18頁6行ないし12行)。

一般式〔Ⅰ〕

<省略>

(ここでRは水素原子又はホルミル基を表し、R′は1~4個の炭素原子を有する飽和アルキル基を表し、Aは水素原子又はalkを表し、そしてalkは1~4個の炭素原子を有するアルキル基を表し、基OR′はsyn位置にある。)

一般式〔Ⅰ′〕

<省略>

そこで、本願発明においては、前記一般式〔Ⅰ〕の化合物の製造に有用な中間体化合物である本願発明の特許請求の範囲記載の一般式で表される化合物及びその製造法を完成したものである(前記手続補正書5頁3行ないし7頁1行)。

3  取消事由について

(1)  原告は、先願明細書の式XⅣの化合物のR13がホルミル基で保護されたアミノ基の場合の発明の開示はないと主張するので、以下この点について検討する。

被告の主張1<1>のとおり先願明細書の一般式〔Ⅰ〕で表される化合物におけるR1がホルミル基で保護されたアミノ基を含んでいること、並びに、被告の主張1<2>のとおり、上記一般式の化合物のR1は先願明細書の一般式〔XⅣ〕で表される化合物のR13と同一であること、はいずれも当事者間に争いがない。したがって、以上の事実によれば、上記一般式〔XⅣ〕の化合物のR13についてもホルミル基で保護されたアミノ基の場合が記載されているものと一応いい得るところである。

この点について、原告は、先願明細書には保護基としてのホルミル基の導入及び脱離の手段についての具体的な記載はない(この点は被告においても認めるところである。)のであるから、上記のようにいえるだけでは、先願明細書に具体的な発明の開示があったことにはならないと主張するので検討を進める。そこでまず、この点についての先願明細書の記載をみるに、成立に争いのない甲第4号証(先願発明の出願公開公報)によれば、「セフエムまたはペナム化合物〔Ⅰ〕において、R1はアミノ基または水酸基あるいはこれらの保護されたものを示し、ここで保護されたアミノ基は、一般のペプチド化学で使用される脱離容易なアミノ基の保護基、たとえばホルミル、アセチル、プロピオニルなどのアルコキシカルボニル基、t-ブトキシルカルボニルなどのアルコキシカルボニル基、メトキシアセチル、メトキシプロピオニルなどのアルコキシアルキルカルボニル基、トリクロルエトキシカルボニルなどの置換アルコキシカルボニル基、ベンジルオキシカルボニルなどのアラルキルオキシカルボニル基、p-ニトロベンジルオキシカルボニルなどの置換アラルキルオキシカルボニル基など、あるいはプロトンで保護されたアミノ基などを意味する。」(5頁右下欄20行ないし6頁左上欄14行)との記載が認められるところ、ホルミル基の導入及び脱離についての具体的な手段に何ら言及することなく、単に「一般のペプチド化学で使用される脱離容易なアミノ基の保護基」としているところからすると、先願明細書においては、ペプチド化学で慣用されているホルミル基に関する先願発明出願前における周知の技術常識に従うことを想定しているものであることは明らかである。そこで、進んで、先願発明出願前における保護基としてのホルミル基についての周知の技術常識について検討するに、成立に争いのない乙第1号証(昭和50年10月30日丸善株式会社発行、泉屋信夫・加藤哲夫・大野素徳・青柳東彦著「ペプチド合成」47、48頁)には、「2.2.1ホルミル(HCO)基」に関し、「HCO基をアミノ酸に導入するには、低温でギ酸と無水酢酸とで処理すると、ラセミ化がなくてよい。また、ギ酸とアミノ酸ベンジルエステルとをDCCでカップルさせて、ホルミル化する方法もある。HCO基は塩基性アミノ酸の側鎖保護にも適していて、α-MSHやβ-MSHの合成に利用された。それはε-HCO-リシンを含むペプチドの水溶性が大きく、クロマトグラフィーによる精製が容易であることや、近年pH6でのヒドラジン塩酸塩あるいはビトロキシルアミン塩酸塩処理のような、温和な脱離法が見いだされたためである。」、「HCO基の除去について述べる。HCO基は無水の状態では、トリフルオロ酢酸、HBγ/AcOHおよびHFに耐える。接触還元やNa/NH3にも安定であるが、水またはメタノールの存在では塩化水素で切断される。すなわち0.1~0.5NHCLと煮沸するか、0.5~1NHCL/MeOHと1~2日放置する条件で切断される。塩酸が存在すると、接触還元の操作中にHCO基は除去される。ヒドラジン酢酸塩、ヒドロキシルアミン塩酸塩、フェニルヒドラジンその他の芳香族塩基による温和な除去法については、はじめにふれた。」、及び「これまでHCO基は除去に欠点があるとされてきた。すなわち塩酸中の煮沸ではペプチド鎖の部分的切断、HCL/MeOHではエステル交換などの副反応のおそれがあった。ヒドラジン酢酸法の発見によって、これらの難点が解決され、親水性などのHCO基の長所が見なおされつつある。」との記載があることが認められる。

前掲乙第1号証は合成化学に関する一般的な技術文献であることに照らすと、保護基としてのホルミル基の導入及び脱離に関する以上の各記載が示す技術的事項は、先願発明の出願前に当業者間に周知の技術的事項であったものと認めて差し支えないというべきである。そうすると、先願明細書には、アミノ基の保護基としてのホルミル基について、その導入及び脱離の手段に関する具体的な記載こそないが、先願明細書に接した当業者は、前記認定の周知の技術的事項を踏まえて前記一般式〔XⅣ〕の化合物のR13について理解するであろうことは容易に推認することが可能というべきであるから、上記式〔XⅣ〕の化合物に関し、ホルミル基が保護基として挙げられている以上、その導入及び脱離の具体的な条件が記載されていないとしても、先願明細書にはホルミル基の前記の周知の導入及び脱離の手段が具体的に記載されているに等しいものと理解することが可能というべきである。

原告は、この点に関し、上記のような理解は、先願明細書に具体的に開示された保護基に関する記載を無視する理解であって、先願明細書の正当な理解ではなく、妥当とはいえないと主張するので検討する。そこで先願明細書をみるに、前掲甲第4号証(先願発明の出願公開公報)によれば、前記一般式〔XⅣ〕の化合物におけるアミノ基の保護基として、β、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基を使用した実施例26、27が示されている(先願明細書19頁右下欄ないし20頁左上欄)ことが認められる。そして、上記の保護基を使用した場合、その脱離の際に基=NR5が-NH2に還元されること及び前記一般式〔XⅣ〕の化合物におけるアミノ基の保護基としてホルミル基を使用した実施例の記載がないことは被告においても争わないところである。しかしながら、既に説示したとおり、先願明細書を見る当業者にとって、そこに記載の一般式〔Ⅰ〕の化合物におけるR1と一般式〔XⅣ〕の化合物のR13が実質的に同一のものであり、R1の保護基として導入及び脱離の各手段が当業者にとって周知であるホルミル基が具体的に指摘されている以上、式〔XⅣ〕の化合物のアミノ基の保護基が前記の実施例に示されたβ、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基に限定されるとまで解することは到底困難であり、先願明細書を精査しても、前記のアミノ基の保護基としてホルミル基を使用することに障害があることを窺わせる記載を見出すことができない。したがって、前記実施例の記載を根拠に一般式〔XⅣ〕の化合物のR13の保護基がβ、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基に限定されるとする原告の主張は採用できない。

なお、原告は、先願明細書には各保護基による保護の対象が具体的に記載されているところ、ホルミル基は水酸基の保護基として挙げられており、アミノ基の保護基とはされていない旨主張する。確かに、前掲甲第4号証によれば、「得られる化合物は、要すれば保護基の除去または(および)基の変換を行なう。アミノ基の保護基の除去は、たとえばt-ブトキシカルボニルは酸によつて、β、β、β-トリクロロエトキシカルボニルは亜鉛と酸によつて、p-ニトロベンジルオキシカルボニルは接触還元によつて行なわれる。また水酸基の保護基の除去は、たとえばホルミルやトリフルオルアセチルは水性メタノール中炭酸水素カリウムによつて、テトラヒドロピラニルは希塩酸によつて、β、β、β-トリクロロエトキシカルボニルは亜鉛と酸によつて行なわれる。カルボキシル基のエステル残基の除去は、たとえば、ベンズヒドリル、p-メトキシベンジル等は酸によつて、β-メチルスルホニルエチルはアルカリによつて、トリメチルシリル、ジメチルシレニルなどは水のみで、またβ、β、β-トリクロルエチルは亜鉛と酸によつて、p-ニトロベンジルなどは還元によつて行なわれる。また、メチルチオ基、メチルセレノ基などは、銀、水銀、鉛、タリウムなどの金属塩化合物の存在下メタノールを作用させることなどによりメトキシ基に変換できる。これらの保護基の除去、基の変換は同時に行なつてもよく、また保護基の種類、次段の反応などを考慮していずれかを先に除去または変換してもよい。」との記載(8頁右上欄10行ないし左下欄14行)があることが認められる。そして、以上の記載によれば、アミノ基及び水酸基の保護基が具体的に指摘され、各保護基の脱離の方法が具体的に開示されているところである。しかし、上記記載自体が保護基を限定するものでないことは、上記記載自体において、「たとえば」と保護基を例示する旨を明らかにしていることからも窺われるところであるし、既に説示したとおり、ホルミル基の保護基としての使用条件は当業者にとって周知であってみれば、あえてアミノ基の保護基として使用された場合の脱離の条件を示さなかったからといって、ホルミル基の保護基としての適用が排除されているとまで解することは相当ではなく、この点についての原告主張も採用できないというべきである。

さらに、原告は、本願発明の一般式Ⅰの化合物におけるアミノ基の保護基であるホルミル基は、脱離の際、化合物の他の部分の化学構造には影響しないのに対し、先願明細書の実施例26、27に具体的に開示された保護基β、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基は脱離の際、同時に、部分構造>C=NR5を>CH-NH2まで還元し、最終生成物中に部分構造>C=NR5を残さないのであるから、両発明における前記の各保護基がその作用効果においても相違していることは明らかであると主張するところ、原告主張の上記の各保護基の脱離の際に生ずる化学変化自体については被告もこれを認めているところである。しかしながら、上記の脱離に伴う化学変化の差異は、先願明細書が具体的に記述したβ、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基を保護基として採用した場合における違いに過ぎず、前記のように式〔XⅣ〕の化合物のアミノ基の保護基としてホルミル基の使用が排除されない、したがって、原告指摘の前記の保護基は一つの例示にすぎないから、保護基としてホルミル基を採用した場合にもβ、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基の場合と同様の差異が生ずるといえない以上、原告指摘の前記差異は両発明の実施例段階における差異であるにすぎず、両発明において採用可能な保護基一般に通ずる作用効果の相違であるとまでいうことはできないから、この点に関する原告主張も採用できない。

以上説示したように、先願明細書に記載のアミノ基等の保護基に関する原告指摘の具体的記載箇所は、前記一般式〔XⅣ〕の化合物におけるR13の保護基としてホルミル基の使用を排除しているものとは解されない以上、先願明細書には前記R13の保護基としてホルミル基が開示されているとした審決の認定判断に同明細書の具体的記載を無視したとの非難が妥当するものではなく、上記の点に関する審決の認定判断に誤りはないというべきである。

(2)  原告は、先願明細書には、ホルミルアミノ基と下記の基を同時に含む化合物が具体的に製造され、確認されているとはいえないと主張する。

<省略>

そこで、この点について検討するに、先願発明の一般式〔XⅣ〕の化合物のR13がホルミル基で保護されたアミノ基であってもよいことが先願明細書に開示されているとみ得ることは、前項に述べたところである。そして、前掲甲第4号証によれば、前記〔XⅣ〕の化合物において、Y及びZは=NR5(R5は保護されていてもよい水酸基)であってもよいとされていることが認められる(5頁左上欄17行ないし右上欄9行)。また、先願明細書にR13(保護されたアミノ基)及び下記式で表される基を同時に含む化合物として具体的に製造されたものとして実施例26及び27の化合物が記載されていることは原告の認めるところである。

<省略>

(R5=保護された水酸基)

してみると、先願明細書に具体的に製造が確認されたものとして記載された上記実施例26及び27の化合物とR13がホルミルアミノ基でYとZがアルコキシイミノ基(=N-OR5)である前記一般式〔XⅣ〕の化合物とは、単にアミノ基の保護基が前者がトリクロロエトキシカルボニル基であるのに対し、後者がホルミル基である点で相違しているにすぎないのであるから、後者が具体的に記載されていないとしても、ホルミル基の保護基としての性格に照らすならば、YとZが=NR5(R5は保護されていてもよい水酸基)であって、R13がホルミルアミノ基である化合物である式〔XⅣ〕の化合物が先願明細書に開示されているとみて差し支えがないというべきである。

(3)  原告は、本願発明は、下記式で表される基のOR′基が

<省略>

synの位置にあるところ、OR′基がsynの位置にある化合物の抗生物質活性は、antiの位置にある化合物より活性が非常に高いという作用効果上の相違があるが、先願明細書の出願人が上記作用効果上の相違については知らなかったことからみても、syn-異性体の製造は自明ではなかったと主張する。

そこで、この点について検討するに、前掲甲第4号証によれば、「なお、これらの化合物に〔XⅣ〕、〔XⅥ〕に包含される2-オキシイミノチアゾール-4-イル酢酸誘導体はオキシイミノ基に関して理論的にsyn-、及びanti-の両異性体が存在し得るが本発明の諸反応には両者とも同様に用いられる。」(10頁左下欄13行ないし17行)との記載が認められ、この記載によれば、先願発明の中間体の製造方法においては、その式〔XⅣ〕に包含される化合物のオキシイミノ基には前記の各異性体がそれぞれ生成し得るが、先願発明における最終化合物の中間体の製造という目的からすると、当業者には両異性体の生成化合物も同様なものとして用いられる趣旨であると理解し得ることは明らかである。

したがって、先願明細書に一般式〔XⅣ〕の化合物のsyn-異性体の製造法が開示されていることは明らかである。

次に、先願発明におけるオキシム基のsyn-異性体の薬理効果について検討するに、前掲甲第4号証には、

「本発明は、式

<省略>

〔式中、R1は保護されていてもよいアミノ基または水酸基を、R2はアミノ基または水酸基あるいはこれらに変換できる基を、R3は水素、メトキシ基またはメトキシ基に変換できる基を、R8は水素またはハロゲンを示す。〕で表わされる部分構造を有するセフエムまたはペナム化合物〔Ⅰ〕、その製造中間体ならびにこれらの製造法に関するものである。

本発明者らは研究の結果、前記式〔Ⅰ〕で表わされる化合物が広くグラム陽性菌、陰性菌に対し高い抗菌力を示すことを知り、本発明を完成した。」(4頁左上欄4行ないし18行)、「このようなセフエムまたはペナム化合物〔Ⅰ〕は、すべて新規化合物で、抗菌性物質として有用である。本発明化合物〔Ⅰ〕は、公知セフアロスポリン剤またはペニシリン剤と同様、注射剤、カプセル剤、錠剤、夥粒剤等として、必要に応じ生理学的に使用可能な担体または賦形剤とともに、溶液、けんだく剤、固形剤等として投与することができる。」(7頁右下欄2行ないし9行)との各記載を認めることができる。

以上の認定によれば、先願発明の化合物、すなわち、先願発明の式〔XⅣ〕のオキシム基がsyn-、anti-の両異性体を含む化合物は、広くグラム陽性菌、陰性菌に対し高い抗菌力を示す先願発明の最終化合物の中間体として認識されていたものであることは明らかである。

そうすると、原告主張のように、先願発明者において、オキシム基がsyn-異性体の場合に、それがanti-異性体の場合を上回る薬理活性を有することについての認識に欠けていたとしても、前記のように、グラム陽性菌及びグラム陰性菌に非常に良好な抗生物活性を有する最終化合物の中間体化合物であるとの認識を得て、その化学構造式が当業者に容易に明らかな程度に開示されている以上、原告主張のようなsyn-異性体の場合の優れた薬理活性についての認識について論ずるまでもなく、先願明細書に本願発明一般式で表される化合物の開示があったものとみて差し支えがないものというべきである。

したがって、この点に関する原告主張は採用できない。

(4)  以上説示したとおり、先願明細書には本願発明の中間体が当業者に明らかな程度に開示されていたものというべきであるから、審決の認定判断に原告主張の誤りはないというべきである。

4  よって本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条、附加期間の定めについて同法158条を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 竹田稔 裁判官 関野杜滋子 裁判官 田中信義)

理由

本願は、昭和52年1月21日に出願した特願昭52-5049号(優先権主張1976年1月23日、仏国)の特許出願の一部を特許法第44条第1項の規定により分割して新たな特許出願として昭和55年3月13日に出願されたものである特願昭55年30970号の特許出願の一部を、さらに同じく分割して新たな特許出願として昭和59年9月28日に出願されたものであつて、その発明の要旨は、平成2年4月19日付けの手続補正書によつて補正された全文訂正明細書の記載からみて、特許請求の範囲に記載されたとおりの

「次の一般式Ⅰ

<省略>

(ここでRはホルミル基を表わし、R′は1~4個の炭素原子を有する飽和アルキル基を表わし、Aは水素原子又はalkを表わし、そしてalkは1~4個の炭素原子を有するアルキル基を表わし、基OR′はsyn位置にある)

の化合物。」

にあるものと認める。

これに対して、原査定の拒絶の理由において引用された本願の優先権主張の日前の他の出願であつて、その出願後に出願公開された特願昭51-67524号(優先権主張1975年6月9日、英国、特開昭51-149296号公報参照)の願書に最初に添付した明細書(以下、「先願明細書」という)には、一般式

<省略>

〔式中、Yは水素でZは保護されていてもよいアミノ基を示すか、YとZは式=NR5(基中、R5は保護されていてもよい水酸基を示す)の基を示し、R13は水酸基または保護されていてもよいアミノ基を示す。〕で表わされる化合物(第7頁及び第16頁、以下式「XIV」という)、上記R5につき水酸基の保護基としてはメチル、エチルのような低級アルキル基が用いられること(第30頁)、上記式中のカルボキシル基はメチル、エチル等のアルキル基で保護されてもよいこと(第34頁)、上記R13につきアミノ基は一般のペプチド化学で使用される脱離容易なアミノ基の保護基、例えばホルミル、アセチル等のアシル、トリクロロエトキシカルボニル等の置換または非置換のアルコキシカルボニル等で保護されること(第19頁)、アミノ基の保護基は酸処理を含む各種の方法により脱離させること(第28頁)、オキシイミノ基に関してシン異性体とアンチ異性体が存在しうること(第37頁)、並びに、式XIVで示される化合物の実施例としてα-メトキシイミノ-〔2-(β、β、β-トリクロロエトキシカルボニルアミノ)チアゾール-4-イル〕酢酸及びそのエチルエステル(実施例26、27)等がそれぞれ記載されている。

そこで、本願発明と先願明細書に記載された発明(以下、「先願発明」という)とを対比すると、一般式Ⅰ及び式XIVで示される化合物について、一般式Ⅰの-NHR基は式XIVのR13がホルミル基で保護されたアミノ基の場合に相当し、一般式Ⅰの=N-OR′基は式XIVのYとZが=NR5(R5がアルキル基で保護された水酸基の場合)に相当するから、一般式Ⅰ及び式XIVで示される化合物は一致し、本願発明は先願明細書に記載された発明と同一と認められる。

なお、請求人は審判請求理由補充書中で本願発明において具体的に製造された化合物のチアゾール環の2位のアミノ基の保護基はβ、β、β-トリクロロエトキシカルボニル基であつて、保護基がホルミル基であるものは先願明細書中に具体的に記載されていないと述べているが、先願発明は、その主たる目的が本願発明と同様最終化合物であるセフエムは又ペナム化合物の合成中間体の取得にあり、2位のアミノ基が単に保護されていればよいものであるから、先願明細書において実施例26、27のほかに、発明の詳細な説明においてホルミル基が例示され、しかもホルミル基がアミノ基の保護基として周知のものであつてみれば、例え、先願明細書に実施例としての記載がないとしても、前記チアゾール環の2位のアミノ基の保護基がホルミル基であるものは実質的に開示されていたものと認められる。(このことは、請求人においても本願発明の化合物につき、出願当初の明細書に一般的に記載されていたものを平成元年4月18日付けの手続補正書により実施例として具体的に追加加入したということからも窺知できる。)。

したがつて、本願発明は先願明細書に記載された発明と同一でありかつ本願発明の発明者が上記先願明細書に記載された発明の発明者と同一であるとも、また本願の出願の時に、その出願人が上記他の出願の出願人と同一であるとも認められないので、本願発明は、特許法第29条の2第1項の規定により特許を受けることができない。

よつて、結論のとおり審決する。

平成3年11月28日

審判長 特許庁審判官 茂原正春

特許庁審判官 日野あけみ

特許庁審判官 真寿田順啓

請求人 被請求人 のため出訴期間として90日を附加する。

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